お好み焼きのルーツのひとつ「一銭洋食」
戦前のおとなたちは、この一銭洋食の存在を、子ども騙《だま》しのおやつぐらいに考えて歯牙にもかけなかったが、背に腹はかえられないと、子どもたちの領分から一銭洋食を横取りして、国民的な食品に格上げしたのである。戦後のお好み焼きの歴史はこうして始まった。盛り場にいち早く店を開いたこれらお好み焼き中興の祖ともいうべきパイオニアたちは、子どもたちから取りあげた一銭洋食の上に、申し訳程度の豚肉をのせることによって、お好み焼きがおとなの食べものとして通用することを証明し、あわせてこの食品のもつ非常食的特性を見事に実証したのである。
それでもこのパイオニアたちは、多少の照れと自責の念を子どもたちに感じたのか、一銭洋食(実は十円洋食ぐらい)を「お好み焼き」と呼び名をすりかえ、かろうじて大人のメンツを保ったのである。
日本のお好み焼きは、戦後、このようにして新しい世界に踏み出したが、昭和二十年代の初期のころは、空腹の虫をおさえる手頃な食べものといった軽い評価しか得られず、街の片隅でほそぼそと露名をつなぐ存在にすぎなかった。
そのお好み焼きも、「もはや戦後ではない」と言われはじめた昭和三十年代に入ると、たんに食欲を満たす食べもののイメージから一転して、おとなの味覚に充分応えうるファーストフードとして、あらゆる層から圧倒的な支持を得るに至ったのである。
名前の由来
ところでこの「お好み焼き」の名称であるが、だれが、いつ、どこで命名したものか、今となっては調べようがない。
ちなみに戦前、戦中、終戦直後のどの料理書にも、「お好み焼き」の名称は見当たらないのである。無駄を承知であえて理屈をつければ、関西あたりでよく見かけられた一膳めし屋、つまりお好み食堂から寸借した造語ではなかったろうか。ショーケースやカウンターに所せましと並ぶ料理の中から、好みの焼魚や煮物や揚げ物などを自由にチョイスしてご飯を食べる、あの方式の店を以前はお好み食堂といった。それにしても「お好み焼き」とは上手く付けたものである。
広島のお好み焼き屋さんでは、「ブタイカタマニコイリ」なぁんて、お客さんのオーダーがとぶ。そのココロはぶた肉、いか、玉子にそば玉ニ個入れてちょうだい、なのである。
お好み焼きは、それを食べる人の好みによって、どのようにも焼くことができる。これでもか、と目をみはるほど大量にネギを使用するネギ焼から、いか、えび、具入りの少々ハイグレードなものまで、お客さまのお好みしだいに仕上げることのできるのがお好み焼きの良さであり、ふところの深さでもある。
なぜ戦前に流行しなかったのか?
それならなぜ戦前に、これほど安価で安直なお好み焼きが日本人にアピールしなかったのだろうか。 明治、大正、昭和初期における日本人の食生活を考えてみると、お好み焼きは、当時の人々に容易に受け容れてもらえないいくつかのマイナス要因があったようである。その最たるものは、ご飯に対する日本人の思い入れの度合である。戦前の食事はあくまでご飯が中心であって、ご飯をもりたてるために副菜があった。めん類でさえもおかずの仲間に組み込まれて、一杯のうどんをすすっただけでは食事をしたことにはならなかった。とにかくご飯を食べなければ食事をした気分になれないのが日本人の気質であった。
そんな食習慣をかたくなに信奉する人たちにとって、おかずでもなくかといって主食ともいえない、どっちつかずの食品に、当時の社会がそっぽを向くのは当たり前のことで、ましてこんにちのごときお好み焼きに昇華させようなどという考えは、かけらさえなかったことだろう。 一銭洋食は、子どもたちの買い食いの対象であって、子どものおやつの領分に、大のおとなが立ち入るのもはばかられるし、だいいち、どこの国のものとも出自のはっきりしない正体不明の食べものに食指をうごかすなど、男児の沽券にかかわるとでも思っていたのか。いずれにしても、戦前の日本人は、変な潔癖症をその体質に持ち合わせていたようである。